【無理しなくていいよ】縁があれば恋愛も友情も必ずまた巡り合う

目次

西麻布交差点から渋谷方面へと少し歩き、脇道に入ると、一見民家のようなバーやレストランが軒を連ねていて、
とっくに終電を終えた時刻なんてさも関係無いかのようにどこのお店にも灯りが灯っている。
そのうちの一つであるバーは屋上にも席があり、その日は酷く険悪なムードを漂わせている男女が座っていた。
呆れかえったような態度の男は会計を済ませた途端、そそくさと外に出てタクシーを拾う。
男を追いかけるかのように外へと飛び出した女は、そのタクシーに乗車することはなく…いや、男に乗車を許されず、暗闇に包まれている西麻布の街に一人取り残された。
暫く立ち尽くしていたが、女もタクシーを拾い、西麻布から去る。彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。
時刻は午前3時過ぎ。季節は冬の気配を感じさせる10月。
三年前の私が当時好きだった人と断絶したこの日を、未だに忘れることが出来ない。
 

1.傷ついて縋って泣いて…

この日に限らず、そして、好きな人や恋人相手に限らず、私はよく傷つき、縋り、よく泣いてきた。
被害者面したい訳ではなく、それ程までに私は男女問わずに真っ直ぐすぎる感情をぶつけてしまってきたということだ。
今はだいぶマシになったけれど、昔から人間関係において白か黒しかなくて、グレーが存在しなかった
他人との境界が曖昧で、それ故に相手に対し、これでもかと感情的になってしまう。
上手く立ち回ってくれる人たち(長年友人関係が切れていない愛すべき友人たち)もいるものの、距離が近づけば近づいた分だけ、境界の曖昧さも顕著となる。
友人相手なら未だしも、好きな人や恋人関係である男性に対しては特に激しかった。
きっと、今まで離別した人たちはこれに耐えられなかったと考える。仕方ない。むしろ、謝りたい。
稀に私が縋りに縋り、関係が一瞬だけ戻ることもあった。が、それは本当に一瞬でしかない。
何にでも言えるが、無理やり形を成してもすぐに壊れてしまう
必死に糸を手繰り寄せたところで、糸が絡まって動けなくなれば、その糸を切る他に手段が無くなってしまうのだから。
 

2.愛情や友情じゃなくてそれは執着だった

恋人を振ったこともあれば、振られたこともある。あれだけ毎日のように一緒にいたのに疎遠となった親友もいる。
人生の各フェーズ毎に人間関係が移ろいゆくのはごくごく自然のことだが、私はきっと人の倍以上はそれを経験しているのかもしれない。
特に自分から好きになった男性や以心伝心するぐらい仲が良かった友人とぶつかり、関係が破綻し、以後コンタクトを取らなくなったといった状況に陥りやすかった。
自分からアタックした男性には振られ、自分の感情がそこまで昂らなかった男性を振ってきたのはその現れとも言える。
振られた時はどうにか抵抗をする。「別れたくない」「直すから」「我慢する」
そんな言葉を連ねて、泣く。なんて無様な光景だろう。
けれど、それは愛情からの行動ではなかったと気づいた。あれは、ただの執着だったのだ。
友達と仲違いをしそうになると、媚を売るような態度を示した時もあったけれど、あれもまた友情ではなく執着が理由だったと今なら分かる。
相手の感情ではなく、フォーカスしていたのはいつも自分の感情ばかり。
だから、必死に執着するしかなかった。まるでおもちゃを取り上げられそうになる子供のように。
 

3.その人たちがいなくても自分は自分

先にも書いたように、私は他人との境界を曖昧にしてしまいがちだ。
だから、相手を好きになりすぎると、無意識のうちに相手と自分を同化してしまっている節がある。
おもちゃに執着する子供のように相手に執着し、さらに同化する。そして、感情的になる。
離れられそうになると、これでもかと縋りつく。何故か。
その人たちがいないと、自分というパズルからピースが抜け落ちる感覚になるからだ。
その人を好きじゃないと、その人の恋人じゃないと、その人の親友じゃないと、自分は不完全体
そういう思い込みに頭の中が支配され、また別のピースを探し続けていた。
でも、その探索の旅の果てに知ったのは、別に誰がいようがいなかろうが、自分は常に完全体だったということ。
「○○の親友でしょ」「好きな人が○○なんだよね」「○○が恋人って羨ましい」
くだらなくは無いけれど、重要でもないその価値はアクセサリーでしかなくて、私の肉体になり得ることは無い
そう考えられるようになると、自然と心がラクになり、どんどん変化が起こっていった。
 

4.縁は確実に存在する

去年、以前好きだった人との仲違いをきっかけに疎遠になっていた友人と再び会うようになり、気がつけば当時のような…いや、それ以上の親密な仲となっていた。
疎遠になっていた期間、私も様々なことを経験したし、彼女もまた学生から社会人へとフェーズを移行し、お互いに一生懸命な日々を過ごしている。
その中でまたこうして、ほぼ毎日のように連絡を取り合い、シリアスな話からどうでもいい話まで話題が絶えないのはすごいことだ。
彼女と急激に仲良くなった当時は毎晩のように遊び歩いていたけれど、今や夜はそそくさと家に帰り、次の日の仕事に備えるようになったのは一つの大きな変化と言えるかもしれない。だからこそ、程よい距離感が保てている。
彼女以外にも、数年間連絡を取れていなかった長年とても親しくしていた別の友人ともまた連絡を取り合うようになった。
物事は一度動き出すと、まるでドミノ倒しかのごとく、次々に動き出していく
その動きの中で再会していく人たちとの間には、所謂“縁”が存在するのだと声高らかに主張したい。
 

5.自然にまた巡り会えばより良い仲に

あくまでも、ここで主張する“縁”とは、自然に身を任せた結果の代物だ。
無理にそれを繋げようとしても何ら意味が無いし、何事にも必ずタイミングというものがある。
例えば、どれだけ相手と復縁したかろうが相手に別の恋人がいれば困難だし(まあそれをどうしかしてしまう強者はいるけれど)、海外出張等でそもそも相手が日本にいなかったら本末転倒だし、SNSでストーキングのような行為をするなんて有り得ない。
物も感情も強固になればなるほど、それに比例して壊れやすくなる。どういう状態が一番壊れないか?それは柔軟である状態。
柔らかな気持ちで穏やかにゆったりと時の流れに身を任せる。そうしていると、気づかぬ間にタイミングは訪れているものだ。
それを繰り返していれば、人生はもっと豊かに充実したものになっている。
 

6.縁があればまた会えるし、付き合える

 

結局のところ、恋愛も友情も縁があれば、自然とまた巡り合い付き合うことができる。
例えば、今あなたのスマホの中に連絡していない元恋人や友人の連絡先が入ったままだとする。
その連絡先を今まで使ってこなかったように、これからも使うことはないだろう。
しかし、その連絡先をあなたは消すことができない。
「執着」だ。
「もしかしたら…」に期待してそれを失うことができないのだ。
でもそれを失ったら生きてはいけないのだろうか?
いや、そんなことはない。
失っても生きていけるし、あなたにとってそれらが人生においてすべてではない。
あなた自身を失うことには決してならない。
あなたが仮にその連絡先に連絡をしたとしても、相手からは大した返事が来ないだろう。
もしかすると返事そのものも来ないかもしれない。
相手はあなたに対して今は興味がないからだ。
無意味な行為。
でも知って欲しいのは、そんなことをしなくても、何年も会っていないことが嘘のように二人の距離がグッと縮まる瞬間というのが確かに存在する。
縁があれば、また再会し、昔のように仲良くなれるのだ。
別れと出会いはあなただけではなく、みんなが繰り返すもの。
だから、必要以上に関係を続けようとせずに、自然の成り行きを信じて受け入れることが大切だ。
いらない苦しみを抱いて、反発したり、足掻いたりはしなくていい。もっと気楽に生きていい。
本当に欲しい“縁”は、自ずと手に入るから。
出会わせ屋についてはこちらの記事を参考にどうぞ。

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フェリーチェ編集部

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