北の『若草物語』と南の『風と共に去りぬ』、ジョー・マーチとスカーレット・オハラの距離について

現在公開中の映画『Story of My Life 私の若草物語』は、アメリカの古典的名作を新進気鋭の女性監督グレタ・ガーウィグが大胆にアレンジし、若手の名女優4人が四姉妹を演じて現代に蘇らせた傑作である。

若草物語を読んだことがない観客は、少女時代と成人してからの日々を目まぐるしくカットバックして参照するグレタ監督の斬新な演出に多少は戸惑うかもしれないが、原作の大元にあるストーリーとテーマは見失われることなく、映画の中心で輝いている。

既に映画化は三度目、世界中で演劇として上演された名作の21世紀リメイクとしてまったく文句のない出来栄えだ。

既に昨年2019年の12月にアメリカで公開され、批評家の絶賛と興行的成功を収めたように、本来なら日本でもこの映画は約3ヶ月前、327日には公開されているはずだった。

世界を覆い尽くしたあの新型感染症による、日本中の映画館の閉鎖という事態さえなければ。

『Story of My Life 私の若草物語』に思うアメリカの人種差別

20206月、緊急事態宣言の解除による映画館の再開、その先陣を切る第一陣の映画たちの一本としてこの『Story of My Life 私の若草物語』は公開された。

本国と日本で映画の公開期間が半年ズレるのはよくあることだ。

だが今回に限っては、その半年の時差は全てを変えてしまうほどの大きな意味を持っていた。

世界の形も、そして映画の持つ意味さえも。映画に世界を変える力があるように、世界の変化が映画の意味を変えてしまうこともまた起きるのだ。

半年の時間が変えてしまった最初の一つは、映画の興行形態である。

率直に言って『Story of My Life 私の若草物語』の興行成績は現在苦戦していると言っていい。

苦戦というのは「以前の基準から見て」つまり映画館の座席がひとつおき、半分しか販売できなくなる以前の状態に比較してという意味だ。

土日の最も観客が入りやすい時間帯でさえ、映画館は今、構造上満員になり得ない。

当然予想できるこの事態に、緊急事態解除後も公開を見送る映画は続出、コンテンツの不足により映画館はジブリの旧作やハリウッドの過去作、果ては『男はつらいよ』をはじめとする20世紀の映画をリバイバル上映してその日を凌いでいる状況だ。

その中で、逆風を恐れず公開された貴重な新作の一本として『若草物語』がある。

もうひとつ、この半年間に世界がこの映画の意味を変えてしまったポイントがある。

それはアメリカにおける、人種差別というファクターだ。

誰もが知るように、『若草物語』は南北戦争下において、父親が北軍の従軍牧師として出征した留守を預かる母親と四姉妹の物語として描かれる。

もちろんそれは今回の映画の中でも同様で、当時のアメリカが人種差別をめぐる激しい議論の中にあること、北部にも残る差別の中で、主人公たちの一家が奴隷解放論の側に立つことがエイミーと級友、あるいはジョーと伯母の議論の間から観客にも分かるようになっている。

この『Story of My Life わたしの若草物語』が本国アメリカで2019年12月25日、昨年のクリスマスに3308館で公開された時、南北戦争と奴隷解放は映画の背景として観客に受け止められたはずだ。少なくともそれを前面に押し出した映画ではなかった。

アメリカの観客たちはそうした歴史を当然踏まえた上で、映画のメインテーマである女性たちの自立、まだフェミニズムという言葉がない時代に自立を模索する四姉妹とその母親の物語の現代的な再解釈に引き込まれ、映画は批評家からも高い評価を受けた。

だが2020525日にミネアポリス近郊で起きた黒人男性ジョージ・フロイドの警官による不当な死、そこから全米に展開した『Black Lives Matter』運動は、この映画を見る観客の視線の比重を大きく変えてしまったと思う。

日本でこの映画を見る僕たちの目にさえ、この映画の時代設定である南北戦争はもはや「背景」ではない。

連日のように報道される全米を飲み込むデモの映像、群衆により引きずり倒されるアメリカの歴代政治家たちの銅像、そうした歴史の再解釈の動きはこの『若草物語』のリメイクを見る観客の視線をも激しく揺さぶっている。

映画『Story of My Life 私の若草物語』と、グレタ・ガーウィグ監督の名誉のために書いておけば、この映画はそうした時代の急激な変化にもかろうじて持ちこたえている。

元々が奴隷解放のために戦った父親の一家であるという原作の設定に加え、映画の中で一家の母親がつぶやく「この国をずっと恥じてきた」という言葉に「差別は今も(北部にも)残っています」と答える黒人女性を描く、BLM運動のはるか前に撮影されたグレタ・ガーウィグ監督のそうした演出は、本国アメリカの観客が激変する社会の中で今この映画を再度見たとしても「白人中心主義だ」という批判になんとか耐えられるだけの強度を持っている。

あらかじめ考え抜いて作られた映画は、そうした急激な価値観の変動に耐えうるのだ。

『若草物語』の対極にある『風と共に去りぬ』

だが一方で、社会の変動は、この『若草物語』と対をなすようなある映画のことを僕に思い出させた。

それは1939年に公開された映画『風と共に去りぬ』のことだ。

BLM運動がアメリカ社会の全てを激しく揺さぶり歴史の再解釈を進める中、アメリカの映像配信サービスHBOmaxは第12回アカデミー賞9部門を独占したこの名作映画の配信を一時的に停止した。

その後、時代背景と人種差別を否定するという注釈をつけて再配信したと報道されたが、その理由はこの映画が描かれた時代背景にある。

『若草物語』の舞台とまったく同じ南北戦争の時代、それを「南」の側の視点から描いた映画が『風と共に去りぬ』だからだ。

『若草物語』と『風と共に去りぬ』はあらゆる意味で対極の映画だ。

『若草物語』は南北戦争に勝利を収め、政治的にも道義的にも歴史の勝者の側にいる北部側の物語である。

『風と共に去りぬ』はその南北戦争に敗れて全てを失う南部の女性、スカーレット・オハラを主人公にする物語だ。二つの映画はあらゆる意味で正反対に位置しながら、「アメリカ白人女性の映画である」という一点においてコインの裏表のように背中合わせに位置している。

それは保守と革新、大統領選挙のたびに民主党の青と共和党の赤に真っ二つに分かれるアメリカの縮図のようだ。

『若草物語』はある意味では、歴史に勝利した北軍、その流れを組むリベラルアメリカの教科書のような物語として書かれ、何度もリメイクされてきた。

奴隷解放という正義の戦いのために出征した父親の留守を支える、心の美しい母親と四姉妹の物語。自分たちも貧しさの中にいながら、より貧しい近隣の家に食料を分け与える有名なシーンは今回の映画でも描かれる。

それは「こうあってほしかったし、こうあるべきだったのだ」というアメリカの理想化された過去の歴史のように見える。

それは『風と共に去りぬ』の第一部のラストで燃え上がるような朝焼けの丘に立ち、何もかも失いながら土から掘り出した作物を生のままで食い、「盗み、騙し、たとえ人を殺そうとも、私は二度と飢えないことを神に誓う」とスカーレット・オハラが叫ぶあの映画史に残る場面となんと対照的なのだろう。

実はグレタ・ガーウィグ監督による今回の『若草物語』のリメイクの最も大きなポイントは、この「リベラルの理想家族」としての四姉妹像に疑義を呈し、よりリアリティのある形で描きなおしたことである。

冒頭から字幕で原作者LMオルコットの「現実が苦いからこそ、私はそうでないものを描く」という言葉が引用されるのは、オルコットによって書かれた「若草物語」という美しい理想の物語の向こうに苦い北部の現実があったことを示唆している。

映画は良妻賢母の権化のような長女メグの中にある抑圧された欲望、四女エイミーの中にある才能と社会的現実の葛藤、そして原作者の投影として小説家となる次女ジョーが社会から受ける抑圧、そしてその抑圧を象徴する出版社の指示によって『若草物語』という物語そのものが歪められていく様子を描く。

リベラルの理想として愛され何度もリメイクされた『若草物語』は虚構だったのではないか、という歴史の再解釈がそこでは行われている。初見の観客が戸惑うほどに名場面が時系列を乱しシャッフルされるのは、今見ているものが虚構なのか現実なのか、主演女優シアーシャ・ローナンが演じているのはジョー・マーチなのか、それとも主人公ジョーが結婚するように結末を書き直すように出版社から求められる原作者ルイーザ・メイ・オルコットなのかを観客に考えさせるためだ。

それがこの映画の最も優れた点だ。

優れた監督と優れた女優による名作の見事なリメイクに感じ入りながら、僕はグレタ・ガーウィグ監督なら果たして『風と共に去りぬ』を現代の価値観に耐えるようにリメイクできるだろうかと考えていた。

価値観の変容に耐える名作、葬られる名作

何度も映画としてリメイクを繰り返し成功してきた『若草物語』に対し、『風と共に去りぬ』は1939年以降一度も映画化されていない。

今回のBLM運動のはるか以前から、小説も含めてこの作品は批判を受け続け、同時に今も有色人種を含めた世界中の観客に読まれ、見られ続けている。

だが、「北部の物語」としての若草物語を脱構築し、理想の四姉妹像の呪いから解き放ったグレタ・ガーウィグ監督なら、あるいはその後に続く次の世代の才能たちなら、「南部の物語」である『風と共に去りぬ』もまたその「美しい白人社会の終焉」という神話を脱構築し、「他人を踏みつけても私は二度と飢えない」と神に誓うスカーレット・オハラの何が正しくて何が間違っていたのか、もう一度描き直すことができる日がいつか来るのではないかと思うのだ。

『若草物語』のジョーとは違い生涯結婚せず、「多くの素敵な女の子たちと恋に落ちたが、男の子に恋したことは一度もなかった」という言葉を残す原作者LMオルコットに対しては、そのフェミニスト的な側面での再評価が進んでいる。

だが「私は二度と飢えない」と誓うスカーレット・オハラは、いくらそれが経済的喪失と失恋などの苦難から何度も立ち上がる女性の物語であったとしても、「スカーレット・オハラは実のところ美人ではなかったが、例えばタールトン家の双子がそうだったように、ひとたびその魅力の虜になった男たちには、美人も不美人もなくなってしまうのだった」というマーガレット・ミッチェルによる原作の第1巻冒頭が今も多くの読者の心を捉えて離さないものであっても、そうした評価はまだ進まない。

アメリカはおそらくスカーレット・オハラの再評価の前に、宇宙計画に関わった黒人女性を描いた『ドリーム(HiddenFigures)』など少数の映画を除いてほとんど書かれたことのない黒人女性たちの物語、そしてネイティブアメリカンの女性や、アメリカの外側でアメリカの自由と人権の犠牲になった女性たちの物語、そうしたいまだ描かれない物語を書かねばならないのだ。

同じ時代に生まれ、アメリカの南北戦争に分断された2人の白人女性、もし同じ街に生まれていたら友達だったかもしれないジョーとスカーレットの距離、『若草物語』と『風と共に去りぬ』の距離を埋めるのは、おそらくはその後になされるべきことなのだろう。

あとしばらくの間、それが何年か、それとも何世紀にもなるのかはわからない。

だが当分間、『若草物語』は何度も語りなおされ、『風とともに去りぬ』は静かに眠り続けるのだろう。

いつかアメリカの分断とねじれが解消され、映画が社会の呪いから解き放たれて純粋な映画として鑑賞できるようになるその日、北部の文学少女ジョー・マーチが、燃え上がるような朝焼けの空を睨みつける飢えた孤独な南部の女、スカーレット・オハラを迎えに行けるようになるその日まで。

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